「新しい命―内なる人」 渡部信牧師(2018/09/09)
敬老の日を覚えての礼拝ですが、私たちの肉体とその人生が、神の栄光のために備えられていることを感謝し、若い人も年中の人も、高齢者も、男性も女性も、一人一人に与えられたその人生を感謝し、主の恵みを証し、主の栄光を賛美しましょう。
私たちは生物学的に言えば、ホモサピエンスという人類で、昔は人生50年、今は人生100年と言われています。肉体的には、22歳から25歳ごろまでに体の成長が完成し、知的能力も30歳ごろがピーク、体力勝負のスポーツ選手なら40歳まで活躍できますが、その後、完全に肉体能力は衰えて行きます。しかしながら若いうちに信仰の訓練と学びをした方が、信仰の土台をしっかりと造ることができるでしょう。けれども実際の人生でその信仰が継続できるかどうかは別問題です。何故なら、信仰は常に生きているものです。そして肉体的な成長と共に、必ずしも人生経験と比例していくとは限りません。つまり内なる信仰も、内なる人は常に成長する必要があります。
今日の聖書の箇所は、パウロが、伝道生活を続ける中で、肉体的な限界を感じつつ、自分は土の器のようだという言葉で自分自身を表わしました。見た目は立派ではなく、病気がちで、小柄の人だったかもしれません。それなのにこの神の命である福音を携えて誰よりも多くのローマ人とギリシャ人に福音を宣べ伝えて歩きました。そして私がこのように弱い肉体を持つ人間でありながら、福音を宣べ伝えることができるのは、私の力ではなく、神が与えた宝がこの土の器の中にあることが明らかになるためである。
そしてパウロは自分の内にあるその宝を「偉大な並はずれた神の力」だと告白しました。「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない」。「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体にあらわれるためである」と言いました。逆に試練が信仰者に襲って来るのは、その宝が本物であることが明らかにされるためですよ。そしてその宝物とは復活の命。イエスの命だと言うのです。
もしクリスチャンが肉体的、物質的に或いは、信仰的に現状に満足しているならば、自分の内にある神の偉大な力である宝が見えてこない。そしてその先は、私たちの目に見えている現状はいつか朽ち去るので、ある期間、自分は信仰生活をした、教会の礼拝に出席していた、で終わってしまう。クリスチャンの信仰とは日々、新しく生きて、生きている信仰なので、本当は素晴らしく、輝かしい信仰生活が待っているのです。預言者エリヤ、エリシャは「万軍の主は生きておられます」と告白しました。イエス・キリストは、「神は今日も生きて働くので私も働くのである」と告げました。それはたとえ、困難があろうとも苦難があろうとも外側の人間が弱められても、内なる人は日々、新しくされ、現状を打ち破る偉大な力を私たちはこの土の器に授かったということなのです。